半世捨て人と「トレイン・ドリームス」
Netflixで「トレイン・ドリームス」という映画を観た。
100年ぐらい前を生きた、ある木こりの物語だ。
山火事で、嫁と小さな娘を亡くす。
家もすべて焼けてしまい、遺体も見つからない。
だから彼は、どこかでまだ生きているんじゃないか、という思いを手放せないまま、
同じ場所に家を建て直して、そこでずっと暮らし続ける。
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物語の中で、彼のことを「世捨て人」と呼ぶ場面がある。
この言葉がやけに心に残って、しばらく考えていた。
正直に言うと、俺も「世捨て人」的な生き方に、どこかで憧れている。
山奥の小さな小屋に一人で住んで、
自給自足に近い形で、静かに暮らすような人生。
でも、俺には家族がいる。
完全な世捨て人には、どうやってもなれない。
ただ、世の中との距離は、意識してだいぶ取っている。
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だから自分のことを、半分だけ世捨て人──「半世捨て人」くらいに思っている。
SNSもほとんどやらない。
今つながりを保っているのは、
一緒に暮らす家族と、日本の母。
それから、年に数回だけ顔を合わせる、数少ない人たち。
世界が狭くなったというより、
「広げすぎない」と決めている感じに近い。
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この年になるまでに、いろんな経験をした。
- 深く愛した
- 長く耐えた
- 否定された
- 裏切られた
- 裏切った
- 深く絶望した
- 絶望から這い上がった
そういうものを一通りくぐり抜けてきて、
もう「説明しなくていい世界」に行きたいと、どこかで思っている。
誰かと競ったり、
正しさを証明したり、
すべてを分かってもらおうとしたり。
そういうものから、もう降りたい。
なるべく静かな場所で、淡々と生きていきたい。
今は、その形を模索しているところだ。
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男という生き物は、多かれ少なかれ、孤独を抱えて生きている気がする。
女とは、少し質が違う。
とくに「子ども」という存在は、男と女で感覚がまったく違うんじゃないかと思う。
女にとって子どもは、
自分の体から生まれてきた存在で、自分の一部に近い。
男にとって子どもは、もちろん大切な存在だけれど、
それでもどこか「自分とは別の他者」という感覚が消えないところがある。
家族がいても、友達がいても、
どこか深いところでは孤独を抱えたまま、という男は多いはずだ。
だからこそ男は、
「深い部分を受け入れてくれる誰か」を、ずっと探してしまうのかもしれない。
その相手が現実に見つかるかどうかは、別として...
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「トレイン・ドリームス」の中で、
一人ぼっちになった木こりのところに、たまに訪ねてくる男がいる。
会話の中で、木こりが静かにこう言う場面が印象に残った。
「とにかく感謝してる。気にかけてくれて」
大げさな言葉ではない。
ただ、それだけ。
世の中から半歩引いて生きている人間にとって、
たまに訪ねてきてくれる誰かの存在は、それくらいの重さを持っている。
その一言に、妙に共感した。
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この映画は、
家族を持ったことのある男が、家族を失う物語だ。
派手な展開があるわけじゃない。
静かで、淡々としていて、それでいて重い。
「男好みの映画だな」と思った。
そして、静かに心に刺さったまま、しばらく抜けなかった。
