俺の中のタイラー

 

映画『ファイト・クラブ』を見た。

 

かなり前の映画だけど、今見ても刺さるものがあった。

これは、ただの暴力映画ではないと思う。

 

殴り合いの映画ではある。

でも本当に描いているのは、男の中にある空虚さや、社会に合わせて生きることへの限界なのだと思う。

 

主人公は、普通に働いている。

会社に行き、家具を買い、部屋を整え、それなりに社会に適応しているように見える。

 

でも、心はまったく満たされていない。

ちゃんと生きているように見えるのに、どこかで自分が死んでいる。

 

その感じは、少しわかる。

 

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俺は会社員になれなかった。

日本で普通に働き、組織の中でうまくやり、空気を読んで、毎日同じ場所へ通う。

そういう生き方が、どうしてもできなかった。

 

会社員の顔。

社会人の顔。

ちゃんとした大人の顔。

 

そういう仮面を、うまくかぶれなかったのだと思う。

 

それが悪いとは思わない。

 

多くの人は、その仮面をかぶりながら、ちゃんと生活を守っている。

 

でも俺には、それが苦しかった。

 

自分を曲げているように感じた。

魂を少しずつ削られているように感じた。

このままここにいたら、自分が自分じゃなくなる気がした。

 

だから俺は、日本から離れた。

海外に出た。

自由に生きたかった。

 

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『ファイト・クラブ』のタイラーは、主人公の中にいるもう一人の自分だった。

社会に合わせて生きる主人公とは違う。

 

タイラーは自由だ。

乱暴で、危険で、めちゃくちゃで、でも強い。

 

もちろん、現実にあれを肯定するつもりはない。

暴力も破壊も、誰かを傷つけることも、肯定できない。

 

でも、タイラーに少し惹かれる気持ちはわかる。

 

それは暴力に惹かれるというより、何にも縛られていない自分に惹かれるのだと思う。

 

会社の評価。

他人の目。

ちゃんとした人生。

成功しなければならないという圧力。

 

そういうものを全部壊して、

「俺は俺だ」

と言い切る存在。

 

男はどこかで、そういう自分に憧れるのかもしれない。

 

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俺の中にも、二つの自分がいる。

 

社会に合わせようとする自分。

自由に生きたい自分。

 

家族を守ろうとする自分。

全部を投げ出して、どこか遠くへ行きたい自分。

 

お金が欲しい自分。

お金のために魂を売りたくない自分。

 

その間で、ずっと揺れている。

 

でも今の俺は、もう何もかも壊して自由になりたいわけではない。

 

家族がいる。

生活がある。

責任がある。

 

だから、タイラーにはなれない。

なれないし、なるべきでもない。

 

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それでも、タイラーが見せたものの中には、今の自分に必要なものも少しだけある。

 

それは、全部を壊すことではない。

 

自分が死んだまま生きていないか、ちゃんと見ること。

社会に合わせすぎて、本当の自分をどこかに置き去りにしていないか。

ちゃんとした人生を演じることに必死で、自分の中の声を無視していないか。

 

そこを見ろ、ということなのだと思う。

 

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俺には、俺のやり方でいい。

 

暴力ではなく、文章で。

破壊ではなく、再起で。

叫びではなく、静かな作業で。

 

今日も俺は、自分の中の何かと戦っている。

 

まだ終わっていないと、自分に言い聞かせながら。